ジョン先生を偲んで (風間 保裕)
- drjohnscheng
- 2021年5月23日
- 讀畢需時 4 分鐘
それは8月3日、勤務先から帰宅し、着替えをするため2階に上がろうとしたとき NHKから流れてきた李登輝元総統の追悼のニュースを耳にしたことから始まりました。
遡ること2か月、台湾のコロナ対策に対する高い評価をニュースで聞きながら、家族で「ジョン先生は如何しているのか一度電話してみようか」、とジョン先生の話をしておりました。
今回のコロナの影響は大きく、大学の講義も遠隔授業となりました。通常の講義は教室で板書による説明をするだけですが、遠隔授業では予めパソコン用の資料を作成しなければなりません。「資料作りが一段落したら」、そんな言い訳をしながらの8月3日のニュースでした。
ジョン先生も李登輝先生の葬儀では大変だろうと早速電話を取りました。そこで初めてジョン先生の他界を奥様から伺いました。話す言葉もなく、ただ驚きを禁じ得ませんでした。昨年の8月16日だったと伺いました。新聞報道もあったとの事を耳にし、何も知らずにいた自分が恥ずかしくなりました。
ジョン先生ご夫妻に初めてお会いしたのは 2010年7月14日の午後、新橋駅の改札口を出たところでした。お話を新橋駅前の通称 SL広場に面したビルの2階にある喫茶店で伺いました。ジョン先生の実の弟、ジョージさんが行っているマイクロ波関係の話でした。私は当時 JAXA でマイクロ波関係の研究を行っていたことを何方かに伺ったためだと記憶しております。 私もジョージさんの仕事内容を知り、非常に興味が湧いたことを覚えています。
その後はジョン先生ご夫妻が東京に来られた時に先生から電話を頂き、お会いするようになりました。
2011年の3月には、前年から開催されていた「台北国際花の博覧会」の見学を奥様からのお誘いで我が家の家族一同で訪問しました。ジョン先生ご夫妻のご案内で、国立故宮博物院の見学を終わり、小雨の降る夕暮れでしたが、乗ったタクシーのテレビを「東京は大変な状況ですよ」、とジョン先生が指さされた画面に国会議事堂の大きなシャンデリアが左右に大きく揺れているのが映りだされたのを見て、事の大きさを知りました。その夜は、国立台湾大学内のレストランに招かれ、東京の大混乱の一時を忘れ、舌鼓を打たせて頂きましたことが昨日のように思い出されます。後に、台北松山空港に降り立った時刻が、東日本大震災に襲われた時刻だ、と言う事を知りました。
2013年3月は台北の圓山大飯店を会場に開催された電磁界理論の世界的国際学会 PIERS のセッションチェアーをジョン先生の実の弟君のジョージさんから依頼されたのですが、ジョージさん急用にて参加できないとのことで、代理としてジョージさんの論文発表の大役を任されたことも思い出されます。セッションチェアーの終わった夕、ジョン先生ご夫妻にお招きされ、三宅ゆかり様のご家族様とご一緒に、楽しいひと時を過ごさせて頂いたことも脳裏に焼き付いております。
ジョージさんが来日されたこともありました。ジョン先生ご夫妻と共にアンテナ技研さんを案内させて頂きました。ジョージさんは昨今の日本の通信機器のビジネス状況などについて案内された川上春夫博士と情報交換されておられました。
ジョン先生ご夫妻は吉祥寺にも数度、足を運ばれましたが、私たち夫婦も半蔵門駅近くのダイアモンドホテルのレストランに何度かお招きを受け、ジョン先生の心温まるおもてなしには常々感激しておりました。
ジョン先生に最後にお会いしたのは2017年に我が拙宅を訪ねて来られた時でした。夕食を吉祥寺のレストランに予約したのですが、待っている時間に奥様が自転車に当て逃げされ骨折してしまいました。警察には届けたのですが、未だ犯人は見つかっておらず、不心得者には怒りを覚え、奥様には大変申し訳なかったと心よりお詫び申し上げます。
本当にジョン先生とは楽しかった思い出ばかりが走馬灯のように駆け巡っております。私たちの息子にもお会いすると気さくに「雅(まさし)、雅(まさし)」と声をかけて頂きました。本当にジョン先生は心優しく、親切で、お心の広い、聡明な先生で、本当の紳士であったと尊敬申し上げます。
在りし日のお姿を偲びつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
風間 保裕
喜久子
生前お世話になりました、笑顔がとても記憶に残っています、ありがとうございました。
風間 雅
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